まあ、そんなこんなでお金に困窮し…生きているのがやっと…
なんていう年月はかれこれ15年ほど続きました。
厄年の33歳の時に倒産して、50歳の呼び声を聞くまで…
まあ、へこたれながらもよく辛抱したものです(笑)
でも、面白いものですよ…
お金の苦労をしたことのある人たちと話すと
皆さん共通して同じことを言いうのです。
『お金がないのって…慣れるよね〜』って(笑)
そうなのです…お財布の中にある2000円が全財産…なんていう日々は
どれだけあったかわかりませんが(笑)
それに慣れると…ないことが、怖くなくなるから不思議です。
かといってお金がないことを賞賛するつもりも、正当化するつもりもありません。
お金がないと…知らず知らずのうちに卑屈になってしまいがちです。
これは、わたしだけかもしれませんが
『清貧』を良しとして育ってきた年代の生き残りであり
学生の頃からそんな教育を受けてきたわたしが
いくら…『ない』ことを正当化しようとしても
それは、頭ではできることではありますが
心はそういうわけにはいきませんでした。
卑屈さや、惨めさ、憤りや、無力感をどれだけ感じたかしれません。
『万事休す…』か
という場面をいくつもくぐり抜け
給食費が払えずに子供まで泣かせるようなことがあっても
それでも生きていくしかなかったのです。
なぜだか…『死』という選択は
夫にもわたしにもまったく縁遠い様相だったから。
知らず知らずのうちに
図太く生きていくことを選択してしまったのですから
仕方ないですよね(笑)
倒産ののち
夫が自分で葬儀屋をやる…と言い出して一年が経とうとする頃
母がガンになりました。
ゴールデンウィークに入る直前…
小学6年生になったばかりの長男とドッチボールをしてしたような
ハツラツとしていた母が
『やっぱり6年生になるとチカラが違うのかなー?
ボールが当たったんやろか、腫れてるわ…』
って、胃の下の方を手で押さえました。
常に明るさと穏やかさを持った母でしたので
想像もしない出来事が起こるとは微塵も思わず
『ヘェ〜そうなん…』
と、軽く受け流してしまったのです。一番身近にいる娘であるわたしが。
あとになって考えてみたら
食事の後や昼間も、横になっている時間が増えていたのです。
ゴールデンウィーク明けに、病院に行くと言う母が
その病院で診断されたのは
息子とは別の形のガン。
余命2ヶ月だという診断にうろたえ、こらえても堪えても溢れ出す涙を
止めるすべさえわからず、車の中で一人泣くしかありませんでした。
母は、我が家の要(かなめ)であり太陽でありやすらぎであったのです。
わたしにも、子供達にも、そして、血の繋がりはない白髪のおじさんにも。
『生きてる時は一回も迎えにきたことなんかないのに
こんな時だけ迎えに来るのね…』
って、亡くなる3日前に
ジョークだかジョークじゃないかわからない父への恨み言を
ひと言だけそう言って
旅立って行きました。
父の7回忌を迎える少し前の…暑い暑い夏のはじまりの日でした。
二ヶ月前には
小学6年生相手にドッチボールをしていた人がです。
7歳違いの父と母は
共に60歳の若さでこの世に別れを告げました。
父も母も両方の親を亡くして
初めて感じることというものはありますね。
ケンカをしていたとしても
生きていてくれるだけで
何かが違うものだと思います。
なんでもそうなのでしょうけど…
失くしてみてはじめて気づく事ばかりです。
自分の小ささも、弱さも…
そして、どれだけ愛されていたかということも。
そして
倒産したあと食費を切りつめるために
毎週…母と二人で並んで買いに行っていた近くのスーパーの
【火曜特売】の卵1パック50円も
わたし一人で並ばなければならなくなりました。
そして…最初はそこに並ぶことさえ
屈辱的であり…恥ずかしさ以外のものを感じられなかったわたしも
その頃には
この50円の卵に並んでいることさえ
もう恥ずかしいとは思わなくなっていたのです。
それほど
要(かなめ)である母を亡くしたことは
明らかに、正念場であることを突きつけられたのであり
逃げ場もなくし、弱音を吐ける場所さえ失くしたのですから。
『恥ずかしい』…なんていう余裕さえ感じる感情は、通り越すしかなかったのです。
ただ、そんな母の病が
わたしに転機をくれました。
ほとんどの人がご存知ないかと思いますが
この母の病を機に、なぜかわたしは無認可保育園を始めてしまったのです!(笑)
打たれ強いでしょうーー(笑)